私の親世代は団塊の世代と言われていますが、その頃の一般的な子育てと今求められる子育て方法は、同じではいけないことは誰もが感づいていることでしょう。初代iPhoneが登場した二〇〇七年から考えても十四年経過した今でさえ、どれだけ世の中が技術的にも進歩してきたのかは明らかですから、三十年も昔の子育て・教育と同じままでは通用しません。時間の経過は世界共通ですので、世界各国のあらゆる面においての進歩とのギャップも生じていると言わざるをえません。
 
我々の親の団塊世代、私のような団塊ジュニア世代、そして現在の子供達が受けている学校教育では、どれほど内容や教え方に違いがあるのでしょうか。 個人的にはあまり変わり映えしていないように感じます。 想像力や発想力を鍛えるような教育をあまり含めず、知能を高めるだけの教育が主体のものに偏り過ぎてしまったのではないでしょうか。記憶力が優れていれば学校の成績はよく、テストの点数も高いので、あの子は頭が良いと周囲からも思われていたと思います。 もうそれではこれからの時代を生き抜いていくことは難しいでしょう。 
 
自分で生きる道を切り開ける能力が必要です。決められたことだけを正確に行えても、これからは生きていけません。そのあたりはスタッフ達も理解しているからこそ、自分で考えながら頑張ってくれているのだと感じます。
世界は広いようで狭い。時間もあるようで、あっという間に終焉を迎えます。 いち早く広い視野を持つことがいかにその後の人生に大きな影響を与えるのかは容易に想像できますし、その機会を提供できるのも周囲の大人の役割ではないでしょうか。
 
昔からその視野を広げる物の見方は様々な例え話で周囲にも話していますが、例え方は違えど、結局伝えたいことは共通して「広い視野をもつこと」に繋がります。 目の前の事が当り前と思っていても別の角度から見た時途端に、別物に見え、これまで湧いてこなかった関心や疑問に気付けるわけです。そして一度興味を持ったものには、人は強い気持ちで行動に移しやすくなります。 
 
よく勉強しなさいと言っても勉強しない子供の話を聞きますが、そもそもの関心が湧いていない場合が多々あると思います。 勉強する動機がなければ、何故しないといけないのかという疑問に答えられませんから、するわけがありません。動機はどこからくるのか。疑問はどこから湧いて来るのか。それは、個人を尊重し、大人のエゴを取っ払い、まだ見ぬ世界と視野を広げることで大抵のケースは解決できると私は考えます。
 
放っておいても子供であれば視野はある程度広がるかもしれませんが、やはり手助けすることも必要かなと感じますし、子供を子供扱いしないことが望ましいと考えます。
親の普通はその子の普通ではないでしょう。ひとりひとりの普通は違うわけですから、ひとりの自立した人間と捉えるように私はしています。 戦後から続けてきた教育から離脱して、真剣に今後を考えないと取り返しがつかないことになる気がしてなりません。